クリストファーノーランの作品はIMAXシアターで初体験したかったからだ。
IMAXカメラでIMAXシアターで鑑賞されることを前提に製作されているからという大きな理由もあった。
そして、スピルバーグ、アレクサンダーペインのように、監督名だけで前情報がなくても映画館に足を運びたいと思わせる監督の一人がクリストファーノーランだからだ。
原子爆弾を作り、落とした国が、その映画を作り、落とした国で公開する。
落とした側の大義名分も描かれる。
真実を描いたのだろうけど"虚構"
映画ならではの"虚構"
現実には、カメラの空撮もなければ、演技も編集もなく、音楽も付かないからだ。
映画好きな自分が、劇中、いよいよ原子爆弾最初の実験「トリニティ実験」が描かれるシークエンスに、映画的なスペクタクルを"楽しんで"しまった。しまった…と書いたのは楽しんではいけないという心理的なブレーキが掛かっているから。
爆発までのカウントダウン、背もたれまで振動する轟音、盛り上がる音楽。
秒読み爆発系の映画として、緊張感を"楽しんだ"自分がいた。
被爆国の人間が、お金を払い、音、映像、緊張感を楽しむのだ。
映画になった以上、皆、お金を払って楽しむこの事実。
「シンドラー のリスト」をお金を払って"楽しんだ"ように。
「プライベートライアン」の冒頭20 分を映画的スペクタクルとして"楽しむ"ように。
怖いもの見たさを満たしたいように。
興行という形で売買、利益が発生するエンターテイメントな形になった以上、楽しまれる、鑑賞されることは否めないと思う。
配信や、DVD、ブルーレイ化された際は、音響のチェックディスクのような利用もされそうだ。(劇場で鑑賞した人と家のテレビで鑑賞した人の間には天と地ほどの感じ方の差が発生する。どんな作品にも言えることだけど鑑賞環境によって、もはや別作品だと思う。空気感が伝わらないのだ)
オッペンハイマーに広島・長崎の惨劇描写がない云々の意見があるようだ。作品に説得力を持たせるにはそこを避けるべきではないと。
被爆者の方が、オッペンハイマーにその描写を求めるだろうか?と想像してみる。
当事者でなければないほど、遠いほど、人はその事象を直視できる。
毎日のように、テレビで流される災害、交通事故、暴力事件、殺人事件を、日本中、いや世界中が食事をしながら視聴していることを思うと、
"当事者でないからこそ視聴できる"
ということを、私たちは意識しておかないといけないと思う。
クリストファーノーランは、インタビューでそこを問われた時、
「何を描かなかったかが重要」と答えたようだ。