フィルフィルのジェリー・ゴールドスミス、コンサートへ行ってきた。
2024年8月17日、酷暑の中、東京オペラシティへ。
あぁ、ジェリー・ゴールドスミス(以下JG)の曲が、映画音楽が好きな人たちによって、こうした形で特集演奏される日が来るとは…
私も含め当時多感だった子供時代に、映画館のスピーカーを通し、あるいはTVの小さなスピーカーからJGの曲に出会い過ごした世代が大人になり、こうしてコンサートを現実に開催してくれる。
認知度が低く評価が低かった映画音楽のジャンルを世の中に広く行き渡らせるため、オリジナルのスコアを取り寄せ整備してくれた先人たち。開いてくれた道へ、熱い流れが今に続いていることに思いを巡らせた。
同じ嗜好・趣味を持つ仲間を見つけやすくなり共鳴し、何かを企画して集まりやすくなったこの時代にも。
JGはアクションのイメージがすごく強いから、客層も中年以上の男性率が高いのだろうなと思っていたら、女性の数も層も幅広く見られて少しうれしく驚きだった。普段の生活ではJG好きどころか、映画音楽が好きな人を見つけることすら難しいのに。
ジョン・ウィリアムズ(以下JW)と同時代を生きた不遇の音楽家、というのがJGのイメージ。
JWが太陽ならJGは月。
スーパーマンのあとにスーパーガール。
インディ・ジョーンズのあとにキングソロモンの秘宝…
担当作品にも伺える明確な境遇。
JGのことを語る、語れる表現力のある書き手の方は、世界には数知れずいると思うのでここでは割愛しておこう。
けれどフィルフィルのコンサートを通して、新たな思いが沸き上がったので、それは自分なりの言葉にしておこうかな。
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以前はJGは男性的でJGは女性的と、なんとも大まかなイメージを向けていたのだけど、逆なのかもしれない、と思った。
・どこか土の匂いを感じさせてくれる響きだ。
・JGの曲は弦がきれいだなぁ。
・人間の声に勝る楽器はないのかもしれないなぁ。
これがこのコンサートで一番感じたこと。
JWが女性を外側から描いているとしたら、JGは女性の内面、内側から女性の気持ちを描いているのでは…と。
ムーラン、氷の微笑、トゥルーナイト、ポルターガイスト、ハムナプトラを聴いていて、より強くそう感じた。アクション、ホラーのジャンルなのに美しさを感じるのだ。
バイオリン、ヴィオラの弦が奏でるときは、まるで美しい女性のなだらかな髪の上を指が滑るような感覚に。本当にきれいな曲、きれいな演奏。
キャロル・アンのテーマの女性合唱の響きには鳥肌が。人間の声に勝る楽器はないと。ソプラノアルトが重なった瞬間のあの感覚。崇高な物事に触れた時のように。
曲の終わりのベッタベタなジャン!の部分がJGの場合、ベッタベタに感じないことにも触れておこう。大袈裟なのに大袈裟でない。どこか抑えたジャン!(実はJWには感じてしまう)
あぁ、音楽に詳しい方に書いてほしい。シンバルがベタがベタでないあの響きを。
トータルリコールのビッグ・ジャンプ。CDを聴いただけでも、これどうやって演奏するんだろう?と思っていた曲を、難なく(そう見えるくらいに)高揚感たっぷりにそこに表現してくれたこと。感嘆しかなかった。
チケットをとり、身だしなみを整え、歩き、電車を乗り換え…
元来ずぼらな私には面倒くさいことのオンパレード。けれどもこの一瞬で全てが報われる。そんな感覚に連れていってもらえた。
コンサートへ足を運び、生の音を空気の振動を直接肌で感じる醍醐味である。
いくら世の中が便利になっても家の中ではここまでの経験はできない。
中世、砂漠、アジア、宇宙へ、日常で考えもしない世界へ意識が向かい焦点が合う瞬間を味わえるのだから。
この世界に作品を残してくれたJG。そして、サントラの音を忠実に作曲者への愛情と敬意を込めて表現してくれたフィルフィルの皆様に感謝である。
※1998年に池袋芸術劇場にて、「ジョンウィリアムズvsジェリーゴールドスミス」と題したコンサートが開催されたことを思い出した。
前半はJG、後半はJWの曲を演奏。(CDも出ている)
その時はプロの演奏によるものだったが、今回のフィルフィルの演奏を思うと、違いを語るのも野暮なくらい。もはや隔世の感がある。
JGの映画音楽を奏でたい、サントラの音を出したい、映画音楽が大好き…気持ち熱量の勝利である。フィルフィルの方に直接そのような発言を聞いたわけではないけれど、そんな気持ちで臨まなければ出ない音だったもの。
作曲家、音楽家、演奏家って、人生のあらゆる感情(喜び、怒り、悲しみ、恐れ、緊張、憧れ、神秘、善悪…)を経験するか掌握していないと、自分も人も共感できる何かを創り出すことはできないと思う。
曲を創り出す上で必要なその感情が、パレットの上の絵の具だとしたら、JGとJWはたくさんの色を持っているなぁと感じる。
最後にフェイバリットなJGの美しいメロディ4選を。
映画「オッペンハイマー」を"楽しんで"しまった。
クリストファーノーランの作品はIMAXシアターで初体験したかったからだ。
IMAXカメラでIMAXシアターで鑑賞されることを前提に製作されているからという大きな理由もあった。
そして、スピルバーグ、アレクサンダーペインのように、監督名だけで前情報がなくても映画館に足を運びたいと思わせる監督の一人がクリストファーノーランだからだ。
原子爆弾を作り、落とした国が、その映画を作り、落とした国で公開する。
落とした側の大義名分も描かれる。
真実を描いたのだろうけど"虚構"
映画ならではの"虚構"
現実には、カメラの空撮もなければ、演技も編集もなく、音楽も付かないからだ。
映画好きな自分が、劇中、いよいよ原子爆弾最初の実験「トリニティ実験」が描かれるシークエンスに、映画的なスペクタクルを"楽しんで"しまった。しまった…と書いたのは楽しんではいけないという心理的なブレーキが掛かっているから。
爆発までのカウントダウン、背もたれまで振動する轟音、盛り上がる音楽。
秒読み爆発系の映画として、緊張感を"楽しんだ"自分がいた。
被爆国の人間が、お金を払い、音、映像、緊張感を楽しむのだ。
映画になった以上、皆、お金を払って楽しむこの事実。
「シンドラー のリスト」をお金を払って"楽しんだ"ように。
「プライベートライアン」の冒頭20 分を映画的スペクタクルとして"楽しむ"ように。
怖いもの見たさを満たしたいように。
興行という形で売買、利益が発生するエンターテイメントな形になった以上、楽しまれる、鑑賞されることは否めないと思う。
配信や、DVD、ブルーレイ化された際は、音響のチェックディスクのような利用もされそうだ。(劇場で鑑賞した人と家のテレビで鑑賞した人の間には天と地ほどの感じ方の差が発生する。どんな作品にも言えることだけど鑑賞環境によって、もはや別作品だと思う。空気感が伝わらないのだ)
オッペンハイマーに広島・長崎の惨劇描写がない云々の意見があるようだ。作品に説得力を持たせるにはそこを避けるべきではないと。
被爆者の方が、オッペンハイマーにその描写を求めるだろうか?と想像してみる。
当事者でなければないほど、遠いほど、人はその事象を直視できる。
毎日のように、テレビで流される災害、交通事故、暴力事件、殺人事件を、日本中、いや世界中が食事をしながら視聴していることを思うと、
"当事者でないからこそ視聴できる"
ということを、私たちは意識しておかないといけないと思う。
クリストファーノーランは、インタビューでそこを問われた時、
「何を描かなかったかが重要」と答えたようだ。
大谷翔平・水原一平さんの事件に感じたこと。
野球ファンでない自分でも、このニュースには興味をひかれた。
もはや、時代のアイコンになってしまった感あるスター、大谷翔平の身近で起きたスキャンダル。
連日騒がれる中で、感じていたことを。
人の人生は混ざり合った絵の具でできた一つの色のよう。
その色は、その人しか持ち得ない色で、何か一つの要素が欠けてもその人の色にはならない。
水原さんの人生の文脈で言うと、その性格の水原さんだから通訳として大きな成功を治めた。けれど持っていた色の一つが失敗も呼んだ。
表裏一体、ワンセット…どんな表現が適切か。
ギャンブル依存症という病気を持つ、危うい才能の持ち主だったからこそ、大谷選手との出会いという大運を引き寄せたという別角度からの見方もある。
性格を割合で表した円グラフにしたらわかりやすいかもしれない。その人全体をその円が表す。一つの要素でも欠けたらきれいな円にならないのだ。
このことは、どんなこと・人にも当てはまる。
素晴らしい才能を持つアーティストが麻薬に手を染めてしまうように。
その人が全て持っているもので人生を歩むのだ。
成功も挫折も起こるべくして起こる。
挫折の色も入ってこそ、一平さんの色たりえている。
この件だけで、水谷さんの全ての人格を否定するようなことは、あってはならない。
4月13日追記
捜査の結果として、水谷さんの手口詳細が明らかになってきた。24億円…
欲望をコントロールするのは難しい。
自分が我慢できない欲望と、種類は違えど、コントロールが効かなくなるのはわかる。
水谷さんは、人を大きく欺いてしまったわけだけど、人をどうしようもなく深く深く立ち直ることも困難なほどの心の傷を負わせた人物、とは言い切れないものがある。
世界はスキャンダルを楽しんだわけだし。
強烈なスターの放つ光は、同じくらい強い影を作ってしまうもの。
私の観念的に出来事を見てしまう癖が出た。
それにしても、水原さんを知るわけでもないのに、世の中は持ち上げてきて、悪事がわかれば突き落とし、挙げ句、大谷選手までに疑惑を向け、それも違ったとわかれば、やっぱり水原が相当な悪だったと手の平を返し…
どうしようもない世間というものをあらためて見せつけられた感じだ。
自分が見た現象、現実、事実でないのに、ペン一つでこれだけ踊らされることができるのだから。
どんなニュースにも言えること。
どんな噂話にも言えること。
真実は当事者にしかわからない。
私たちは、ただそのわずかな一片を見て騒ぎ立てている。
自分のことでない他人のことに。
人の不幸は蜜の味…は真理。
いやいやそんなことはない、と否定したいけれども。
感動と不満で「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」を鑑賞した。
ハリソン・フォード=インディジョーンズ。
役者が役に出会う幸せな瞬間をずっと、観客は40年以上ずっと楽しませてもらった。
今回、その別れをスクリーンで見届けた。
総括して~
映画って、映画館で観る娯楽作って、インディジョーンズってこんなふうに楽しいものだったよね、いくら荒唐無稽な内容でも、そこにはちゃんと感動があるものだよね、と思わせてくれる作品だった。
ハリソン・フォードの表情・動きに釘付けになり、ジョン・ウィリアムズから溢れ出た音楽を2時間以上浴びることができる。これだけ贅沢な時間を近年、映画館で味わえただろうか。
他の有名シリーズ作品と同様、観る人がどれだけ作品に親しんで来たか・どれだけ人生の傍にあったか・歩んできたかが、その感想に大いに影響するので、通常レビューが当てにならない種類の作品でもある。
劇場から出る時、後ろの高校生くらいの女性が、「あー楽しかった!」と言うのを聞いて、同意したと共に、嬉しい気分になった。
これから観る人には、待ちわびた大人の目線でなく、初めて映画館で映画に触れる子供のようにこの作品には触れてほしいと思った。
80年代、90年代だったら、インディ・ジョーンズの5作目公開となれば、7月の夏休みロードショーとなっただろう。
2020年代、現在において夏の目玉はトムクルーズ主演「ミッションインポッシブル・デッドレコニング」である。
インディジョーンズが、一昔前の「ハムナプトラ」と同じような境遇に立っていることに少し寂しさと時代の流れを感じる。シリーズに親しんで来た個人の熱は、明らかに強いのだけど、一般的にはもう、過去のシリーズと思われてしまっているのだろう。
物語の核に触れるネタバレ感想を箇条書き的に ↓
● ディズニーの映画であること。
オープニング、ディズニーのシンデレラ城のロゴに、長年のファンとして、違和感を感じ、ルーカスフィルム、パラマウントのロゴに「これこれ!」となる。パラマウントのロゴがシリーズお約束のオーバーラップ導入がないことに、これはディズニーの映画ですから、というメッセージを感じる。
この不満は、ラストのカットでも。
シリーズの最終カットが、黒い丸が閉じる形で終わる「アイリス・アウト」(古いサイレント映画やアニメなどで見られる)なのだ。
前4作は映像にクレジットがフェードしてくる表現だった。最後であることを明確にしたかったのだろうか?
にしても、黒い円の中でインディの手が伸びて帽子を引っ込める映像には、ミッキーやドナルドダックの手が伸びるディズニーアニメのラストを連想してしまった。
始まりと終わりで、ディズニーをしっかりと意識させる経営戦略なのでは?くらいの斜めな見方をしてしまう。
勢いよく帽子をとった後、マットの入隊をダイヤルを使って止めに行ったのかも・・・という想像も楽しいのだけど。
● アクションシーンと若返りCG
金がふんだんにかかったであろうアクションが多いが、何がどうなっているのかわかりにくい。わからないからハラハラしようがない。
オープニングの列車アクションは、シーンが夜で暗いこともあってなおさら。伝わったのは動きのスピード感のみ。
スピルバーグの、トラック、トロッコ、バイクetc…のチェイスシーンは、目で追うことができ、位置関係などもわかりやすかった。
このことは、ジョン・ウィリアムズによる音楽にも影響したと思う。
ムチを何かに巻き付け、インディが空中にターザンするお約束シーンがシリーズ中、初めてなかったように・・・
例えば、スピルバーグ監督作「E.T.」では、自転車が弧を描きジャンプし、パトカーが弧を描きカーブを曲がるシーンにピッタリ音楽がシンクロ(それこそディズニーのミッキーマウジング)していたシーンがあったが、「運命のダイヤル」のアクションシーンの曲はシンクロというより、状況音楽の印象なのだ。
上映後、トゥクトゥクのチェイスシーンの曲を口ずさめる人がどれだけいるだろうか?
ジョン・ウィリアムズはスピルバーグの作品を、「スティーブンの作品は元々、リズムがあって音楽が付けやすい」とインタビューで答えていたが、今回の作品、音楽が付けにくかったんじゃないかな・・・と想像してしまった。
前述した、「レイダース」のトラック、「魔宮の伝説」のトロッコ、最後の聖戦のバイク、戦車・・・これらには全て映像と音楽のシンクロが感じられたのだから。
思うに、「運命のダイヤル」に限らず、最近の映画アクションシーンのスピード・カット割りが速くなりすぎて音楽的ではなくなってしまったのが原因かもしれない。スターウォーズの新シリーズからもそれは感じた。
余談だが、絵に自信のある監督はあまりカメラを忙しく動かさないし、カットもパンパン変えないことを思い出した。キューブリック、黒澤明、北野武、そしてスピルバーグは絵を落ち着いて描く監督だ。
・お馴染み、インディジョーンズのテーマが高らかに劇中初めて流れるシーン。もっと他のタイミングはなかったのだろうか?
何をするわけでもない、”列車の上で走る”というだけで、このメロディの出番じゃないだろう、と感じた。
ハリソン・フォードの若返りCG技術が、違和感がないということで話題になっていたが、まだまだ違和感は感じた。自然ではないと思う。人間の視覚はそれだけ精巧な創り。まだまだコンピューターには騙されない。
● 古代から戻るところを観たかった。
最後の盛り上がりは本当に映画館で映画を観るという醍醐味に満ちていた。
ものすごい荒唐無稽・ハチャメチャ。だって、古代にタイムスリップしてしまうのだから。それを信じ込ませ楽しませてしまう力技。ハリウッド映画にしかできない。こうなったらノレるかノレないか。
ここまでやるんだったら、間に合うか間に合わないかのスリルの中で、未来へ戻るという”インディジョーンズなりのバックトゥザフューチャー”を、盛り上がりを観たかった。贅沢かな・・・
「もうすぐ入り口が閉じてしまう!」って台詞があったんだから、すでにこれだけ盛り込んでいるのだから、やってほしかったな。ベッドの上のインディにシーンが切り替わった時、ちょっとガッカリがあった。
● ハリソン・フォードの顔と、記憶に残ったシーン。
2時間以上、ずっとハリソン・フォードの顔に釘付け。飽きない。
80歳を過ぎた男の顔に釘付けなんて。それがスターの証なのだろうか。
一人の俳優が40年以上に渡り同じ役を演じたのだ。こちらも感慨深さを感じずに観ることができない。何某かの感情をハリソンのいろいろな表情に当て嵌めてしまう。
そういえば、お馴染み、半分笑って半分困っての苦笑いが今作ではなかったような?再見するから確認してみよう。
この作品で、印象に残ったシーンは2つ。もちろんCGの若返りハリソンではない。
1つめは、
現代には戻らないと、古代に残ることをヘレナに伝えるシーン。
もう、息子もいない、妻・マリオンも戻ってこない、そんな世界にいるよりもこの世界に残りたい。
近年のハリソンフォードの表情の中では複雑で悲しくて少し幸せそうでダントツだった。
2つめは、
↑ 1つめのシーンを経て、幸せは過去にではなく現在にある。というメッセージを感じたラスト。
マリオンとの再会シーン。プラトニックで慎ましく美しいシーンだった。
キッチンに立つ2人を映した、ただそれだけのシーンなのに。
● ジョン・ウィリアムズによる音楽
スターウォーズと同様に、ただ、映画に曲を付けた音楽でなく、物語を主人公と一緒に語る音楽を、今回も産み出してくれた。
フィービー・ウォーラー=ブリッジ、演じるヘレナ。
今回の作品で、彼女のことを描いた「ヘレナのテーマ」は複雑かつ本当に美しい曲。
この曲を書いてもらえたフィービー・ウォーラー=ブリッジは幸せな女優さんだと勝手に思う。
エンドクレジットではこの曲が短縮されずにフルで流れた。うれしかった
。前の方にチラチラ、スマホ蛍が出現していたけども。
そして私も、ジョン・ウィリアムズの新曲を映画館のスピーカーで聴ける幸せを噛みしめている。
もう一つ、古代のことを描いた曲がある。モチーフともいうべきか。
古代のことを知らないと書けないのではないか?
古代のことなんて、その時代を生きたわけでないからわからない?
では、なぜ、聴く人が古代という印象を受けることができるのか?
やはり、ジョン・ウィリアムズから溢れ出る曲には、大袈裟に言えば、長い歴史を辿ってきた人間の、遺伝子レベルにまで反応し訴えかける「 」が含まれている気がしてならない。
「 」は人によって様々だと思うから明記はしない。
恐竜なら・冒険なら・戦争なら・宇宙なら・悲しみなら・サメなら・魔法なら・・・
地球上の人間が「これだよね」と共感できるこれ以上ない一つをメロディに選び、言葉を超えて表現している。91歳を迎えた今でも。
天の才。
91歳の人間から産み出される新しいメロディがこんなに心待ちなんて。
エンドクレジット、白いフォントの「HARRISON FORD」と出るタイミングでお馴染みのテーマ、スタート部にタイミングが合っていたことに、スタッフの愛を感じた。
そしてその後、第二テーマのスタート部バッチリの場所で「MUSIC BY JOHN WILLIAMS」と出たことにも、シリーズの大功労者を労うスタッフの愛を感じずにはいられなかった。
ちなみに、今作のレイダース・マーチ(インディジョーンズのテーマ)は、老齢のインディを表すかのようにゆったり勇壮な雰囲気。
欲を言えば、エンドクレジットはメドレーで聴きたかったな。
フェード気味にあんなに大人しくでなく、高らかにインディジョーンズのメロディをもう一度鳴らして終わってほしかった。ジャカジャカジャン!と。
映画自体が若々しく振り切っていたのだから。
CHAGEandASKAの、ASKAさんの音楽。
何年か前、季節はちょうど秋が深いところを過ぎた今頃。
知人の車に乗せてもらう機会があり、彼の運転に身を委ねながら2022年(先頃)のワールドカップがどうなるかなど、他愛のない普段通りの会話をしていた。スピーカーからは、彼のお気に入りと思われる日本のポップスが流れていて。
その、邦楽ベスト盤のようなプレイリストの中に、なんだか他のアーティストとメロディの持って行き方が違う。なんだこれ…?
と、気になったアーティストがいた。彼には「これ誰の歌?」としか聞かなかったけど。
それが、遅かりし出会いとなったASKAさんの音楽。ASKAさんのことは、数年前の事件のことはもちろん、「SAYYES」を作曲した人、という当たり前のような知識があっただけだった。
その時、スピーカーから流れていた曲は「あなたが泣くことはない」という曲。数日後、気になってネットで注文してしまった。
歌詞は難解で、どこに何を感じたらよいのかわからないと感じてしまったのだけど、その詩に乗ったメロディの切なさはどう表現したらよいのだろう。
詩にメロディが乗ったのか。メロディに詩が乗ったのか。順序はわからないが…
そこからである。
私の、ASKAさんへの探求が始まったのは。
↑ この方の演奏はASKAさんのメロディの特殊性・美しさが伝わる演奏だった。
↑ この曲にも面白いコード進行を、そして美しさを感じた。
有名な曲。歌うようなハラミちゃんの演奏もあって、より旋律の美しさが際立つ。
↑ 今の時期にはこのメロディかな。
事件のことは、聞こえてくる話のどこまでが真実で、どこまでが虚構なのか、もう当事者にしかわからない。そういうことなので私は気にならない。気にしない。
まぁ…
というよりも、聖人君子で誠実で真面目でお行儀が良いアーティストがいたとして…
そんな歌い手の創造した作品を聴きたいと思うだろうか?心を動かされるだろうか?と、自分に問いかけた時にそうはならなかった。
逆に言えば、何かを発信する人って、知り得ない想像もできない感情を通常の人間よりも深く味わっていないと到底、人の心を動かす作品は生み出せないと勝手に考えている。
この人も例に漏れず、SNSやYahoo!コメントには酷いことを書かれているようだ。
私は思う。
そもそも論なのだけど…
コメントをする行為自体が、
・当事者ではない。
・当事者ほどの苦しみや苦労を経験していない。
からこそできる行為だと思うから。
話が逸れた…
邦楽のアルバムなんて、いつ以来に購入しただろうか。
最新作の「Wonderful world」買ってしまいましたとも。にわかに手にした自分と比べ、長年のファンの方には待望だったんだろうな。しばらくの間、売り切れで手にすることができなかった。
何回か通しで拝聴し、耳に残ってしょうがない曲がある。
アルバム最後の「I feel so good」だ。
胸がいっぱいになってしまった。こういうの何と言うんだろうか…多幸感?あまりにもチープな表現だな。パーソナルなことを歌っているのだけど、実は普遍的なものを詩にして、その詩がメロディを選んだような。慈しみと強さを内包した曲。
この曲の後に来る曲はないだろうという曲。この曲でこのアルバムは円を終えるという曲。
複雑なコード進行を複雑でないように聴かせる究極のシンプル。
自分が好きな音楽の傾向。
そういえば、ASKAさん印とも言うべき難解な、わかりそうで解らない比喩表現が、この曲には見当たらない。
最初から最後までどこを切り取ってもサビのようだな、と感じた「SAYYES」
似たものを感じた。
1番の歌詞。
「これからも」で助走をつけ
「ビルの上を飛ぶように」で上昇気流に乗り
「気づけばこうなっていたとか」で、バランスをとりながら浮力を得て飛行してるイメージ。
終わり間近の転調。
「もうすぐ夏が終わる頃だね」で一度地上に降りてくるけど、
「歌えない」で一気に空に戻る。
最後の
「人はみな哀しいだとか」からは、もう雲の上を進むイメージ。
後追いで、今までの作品を追いかけるアーティストが見つかった。しかも、そのアーティストは存命で、今尚、作品を生み出している。それが嬉しい。
そして、今まで気付かなかった自分が惜しく恥ずかしくもあった。
耳と心のアンテナを、柔軟で敏感なものにしなきゃね。
最近、感動することが少なくなっていた…
渇いたかのような自分の中に
潤いが補充された。
※ 書き出しにあるASKAさんの音楽と"出会った"後、
自分でも、どんな内容を書いたのか忘れていたけど、ちゃんとツイートしていた。
今見ると、ハマり始め感が濃厚。この頃はまだ沼に足を浸している状態。
https://mobile.twitter.com/search?src=typed_query&q=from%3Aseitekiganbo%20%E2%80%9CASKA%E2%80%9D
映画 「ドライブ・マイ・カー」を観て感じたこと。
私は、文章を書き公開する多くの人に比べ、言葉を持たない。語彙力もない。ましてや、村上春樹の本を少し読んでみたことがあるだけで、村上春樹がどんな作家ということも知らない。村上春樹と聞けば「ノルウェイの森」がベストセラーだったことや、ノーベル賞の受賞を毎年待たれていることをセットで連想するレベルの知識の浅さだ。
人に勧められ「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を19歳の時に読んだが、こちらもタイトル以外うっすらとしか覚えていない。
既知であれば、より作品を楽しめ、理解が深まったであろう劇中劇の「ワーニャ叔父さん」も知らない。
3月に開催される米国アカデミー賞に4部門がノミネートされたことで俄然注目が集まった為、劇場で再公開されているこのタイミングに、まさにそのミーハーな動機しか持たずに鑑賞してきた。濱口監督の名前すら知らず、もちろん作品に触れるのも初めて。
そんな自分がこの作品を語ること自体、おこがましい。が、感想文のような備忘録なら…と思い立ち書いている。響いたものが確かにあったから。
ネタバレなしで…
率直に感じたことは、「いつまでもこの映画の静けさや雰囲気に浸っていたい」と思えた作品ということ。
自分は、映画館で映画を観る時、あまり物語にしがみつかない。頭で追えない場合が殆ど。だから、暗闇、音、静けさ、どこかの席から漂ってくるコーヒーやポップコーンの香り。そういった雰囲気を楽しむ為に映画館へ足を運んでいるふしがある。なかなか共感を得れないが、そんな感覚、姿勢の自分にはピッタリとハマった。
濱口監督、こんなに静かで心地よいリズムの作品を撮る人ならと、過去作への興味が強くなった。
数多の作品にはない特別な雰囲気を纏った作品であることは確かなこと。
オープニングクレジットの入り方、数少ない音楽の入る箇所…
全編に、北野武作品にも通じる省略・引き算の美しさも感じた。観客を突き放しているわけでなく、信頼しているからこその「わかるでしょう?」な姿勢。説明的なシーンが全くないわけではないが。
原作は、短編小説の「女のいない男たち」
長編かと思っていたので、まず短編ということに驚く。
浮遊感を感じた夜間のドライブのシーン。この映画を紹介するベストなシーンの一つじゃないかな。
既にDVD、ブルーレイも出ており、家で鑑賞できる状況だが、私は、この作品を未見の方に、タイミングが許すなら、映画館の暗闇のなかで出会ってほしいと強くおすすめしたい。語りかけてくる奥行きが深い作品だと思うから。
やたらスマホに触れられて、ちょっとトイレに立つために一時停止…なんて環境で出会わない方がよいと思う。
また、耳鳴りがするほど無音が活かされるシーンもあるので、お腹に何も入れない状態で観てしまうと音が鳴らないか気になってしまうかも。
場内…
同じ時間を共有した人たちのマナーもすこぶる良かった。上映中、水分を口にするのみで食べない私にとって、他の皆さんも食べない状況はありがたかった。エンドクレジットが終わるまで席を立つ人が少なかったのもうれしかったな。
鑑賞後、迷いなく購入したブルーレイ…
パッケージの、あのデジタルな質感はこの映画のことを表していないなと感じた。
のっぺりしていて、手に取る人にこの映画のことを伝えられるパッケージではないと思う。もっとフィルム感が欲しかったな…陰影のある…
数多あるデザイン。
映画好きな層を、はなからターゲットにしてないような…
↑ うーん…
↓ いいですね。
余談だが、
西島さんを見るたびに発想することを今回も…
それは、他のアジア圏でリメイクされるなら同じ役はトニー・レオンかなぁ…と思ってしまったこと。インファナル・アフェアでも示されている通り、存在感が似ているのだろうか…
夢野あいだ監督作品への期待と願い。
「淫語で犯す自画撮り着衣痴女」 永野つかさ 若宮はずき
これは、アダルトビデオの批評だ。しかし願望が多めの批評だ。
ただ、オナニーするだけの作品には陥らない夢野あいだ監督の作品に、以前から注目している。
熱狂的な、夢野監督のファンというわけではない。しかし、夢野監督作を探さなくても、自分が気に入った作品、気持ちよかった作品を確認すると夢野監督であることが多々あった。女性が欲望を表現する作品が好きな自分には必然の引き寄せかもしれない。
緻密で繊細な雰囲気づくり、そこら数多のAV監督が多用する「瞳の中に白い輪っかが入ってしまうLEDライトのカメラ」を使用していない大きな良質ポイントもある。
非現実的なライティングをせず、自然光で表現する性に、おそらく拘りをお持ちだと推測。
最近、「永野つかさ 若宮はずき 淫語で犯す自画撮り着衣痴女」という作品に触れた。
リリースは2020年12月。気付くのが遅いな。
オナニーの為の鑑賞であるのはもちろんなのだが、視聴していて、文章で夢野監督の作品をあれこれ書いてみたいと思ったのだ。ブログというものをやりながら、書くことが得意でなく、思いを言葉にするのが苦手な私が、「書こう」と思えたのは久しぶりだった。何を経験しても書くほどじゃないな…と自己判断してしまうのに…
大好きな分野であるだけに、ここをこうしてほしかったという思いも強い。自分にとって、どうでもいい事柄ではないのだろう。
それでは作品について…
これから、この女性たちによる妖しい行為が始まる…という予感と期待が膨らむオープニング。
ラウンジで流れるような、しかしどこか妖しい音楽、舐めまわすように、ぬと~っとしたカメラの動き。
夢野監督の作品には、他にない独特の空気が流れている。さわやかでは決してない。清潔感と退廃感を混ぜたような淫靡な空気。いやらしいことがこの部屋で繰り広げられるという部屋中に漂っているものが濃い。
この先のどこかの興奮ポイントで射精してしまうとしても、オープニングからじっくり見ておこうという気になるのは、この導入部で感じ入っていれば、射精の瞬間の気持ちよさも倍増するからだ。チャプター飛ばしができない。
彼女たちはどんな香水を纏っているのだろう、生地の触感はどんなだろう?
いろいろ頭の中を妄想で巡らせながらの9分13秒。
夢野監督は、女優さんにどんな演技指導をしているのだろう?していないのかな?大まかな方向だけ示してあとは本能のままにやってください、と伝えているのかな…?
それだけ女性の演技に嘘がなく自然なのだ。演技でないなら演者がほんとうにエロいということか・・・と想像が広がる。
「タイトワンピース挑発イメージ」
オープニングの間に、香水をシュッ…と纏う演出が見たかったなぁ。後々、女の香りが染みついていることを想像・興奮できるから。
↑このように、好きなだけにこうしてほしかった、こうすれば”自分は”最高に脳からペニスの先まで気持ちよかったのに…という勝手な意見がたくさんある。項目で挙げていこうと思う。
「淫語パンスト痴女プレイ」
① 14分15秒「これが見たかったんでしょう?」の言葉の後に、「そしてこうやって鼻を突っ込んで、はずきちゃんの香りを吸い込みたかったんでしょう?」があれば最高だった。この言葉があるとないとじゃ大違い。あったらここでイッてる。そして、つかささんが実際に鼻を突っ込みじっくり香りを鼻腔の奥で感じ「あ~はずきちゃんの匂い、いやらしい牝の匂い、嗅ぎたいんでしょう…?」があれば◎
② 14分43秒の「エロいでしょ?」の後にやはり同じように嗅ぐところを生殺しのように見せてほしかったな。
「緊張して喉が乾いてるんでしょう?」
って言葉とともに、永野さん若宮さんから分泌された唾液を、男優の口に糸を引きながらたっぷりと注ぎ込むところ、見たかったなぁ。
③ 17分22秒まで進み、青いブリーフ越し、男優のモノに牝尻を押し当てているシーン…このあたりで、「これ、着替える前までつけていた下着よ」と言って、傍に置いたブランドバッグから取り出し、男優の顔に被らせてあげたらよかったに…
いや、青いブリーフでなく、永野さんの下着を男優に履かせて、若宮さんの下着を顔に被らせて羞恥を深めてもよかったかもしれない。「匂いに興奮しているの?お尻に興奮しているの?どっち?」って。
④ 19分00秒 ここまでは永野さんの淫語の言語数が多く、纏わりつくような甘い声に時折低めの声を挟む点も一本調子でなく飽きさせなくていい。デパート店員の「いらっしゃいませ」の発声フェチなのだが、あれがすぐできてしまう方なのでは?と感じた。永野さんは、”まだ”おとなしい"
永野さんの淫語には能動的なものを感じるけど、若宮さんの淫語にはまだ本人のエンジンがアイドリング感がある。この時点では…
⑤ 31分37秒 ソファに男優を座らせて両側に寄り添わせてからの攻めが続く。定点カメラで正面と左からのアングル。実はこの定点の方が落ち着いて集中して入っていける…と個人的には思うのだ。欲を言えばこの状態のまま、永塚さん、若宮さん交互に男優の顔に和式便器に座り込むように局部を押し付け「匂いを嗅ぎなさい」ってやってほしかったなぁ。何回かでいいから。
そして、この3人の状況の正面には大きな鏡があった方が男優にとっては視覚的に気持ちいいかな…と思ったが…
そうだ。このほうがいい→もう一人痴女っ気タップリのお姉さんが、フェミニンな格好で、鑑賞者、見学者として全く関係のない女性が最初から椅子に座ってずっと鑑賞していて、そのうち服を脱ぎながらオナニーを始めてしまうのだ。それとも、初心(ウブ)でどうしようもない女性を座らせて素の反応を男に見せるというのもいいかもしれない。使い古されたアイデアかな。最後までこの3人には全く触れない、3人も全く意に介さない感じで、空気のようにいてくれたらよいのだけど。
⑥ 32分45秒 「破裂しちゃうんじゃない?このチ〇ポ」ってとこから若宮さんに能動的な痴女スイッチが入ったのを感じた。雰囲気が変わったもの。こういう瞬間がたまらない。ほんとうに。
⑦ 40分44秒 男優は足を真っすぐに伸ばして座っているけど、二人の女優に大きく大の字に広げさせた方が、その後の見た目も含めて情けなさといやらしさ、気持ちよさげが出たかもしれない。真ん中にそそり立つチ〇ポの卑猥度も上がったはず。足を広げたと同時に、玉袋の薄い両端をつまんであげてムササビのようにしてあげたほうが尚よかったかも。この状態、気持ちいいだろうなぁ…映像になってないから想像するしかない。脳内補正だ。
「淫語Wフェラ痴女プレイ」
⑧ 45分45秒 フェラチオの前に「いただきます」という一言を発する永野さん。あるとないとじゃ大違い。わかってらっしゃる。ちょっとテンポ遅めに纏わりつくようなスローで言われたら尚ゾクッとしただろう…惜しい。
「いただきます」は興奮度合を上げる一言だ。
⑨ 射精までの波がどんどん大きくなるこの時に、永野さん若宮さんが身に着けている下着を男優の鼻に押し付けて「私たちのいやらしい牝の匂いをもっと感じなさい」が見たかったなぁ。すぐ果てる自信がある。こんなこと言ったら元も子もないんだけど、黒ストッキングじゃなくて、ダークなベージュの方がいやらしいと思うんだけどな。
⑩ 54分45秒からの若宮さん…男優の舌を奪うシーンは最高に興奮してしまった。こんなことされたら全身から力が抜けてしまうだろう。陳腐な言葉だが、男優さんが羨ましい…
、と思うのも束の間、さらに興奮度を上回る攻めが59分32秒からのお口ま〇こだった。
⑪ 最後の射精時…これはもう、鑑賞する側のフェチ・好みになってしまうのだけれども、牝尻を覆う黒いストッキングの上へのバック素股射精は、何故か尻すぼみ感を感じてしまった。只、放出された精液を見た若宮さんの「くっさ~い!」という言葉はこちらの羞恥心、あるいは凌辱心をくすぐられるような一言でよかったな。
最後の、黒ストッキング牝尻への射精…以外の個人的見たいバージョンは…
今まで第三者として行為を鑑賞していた痴女っ気お姉さん、もしくはうぶな女性が、おもむろに参加し、「失礼します」などの言葉もないまま、無言で男優の乳首を口撃し、じっとりしっとり汗ばんだ温かい手で包み込むようなスローストロークの手コキに移行してもらえたら最高だったな。
その正面には、M字に股を広げた永野さん。「いらっしゃい…」の一言を発するとともに
パンストを秘部の部分だけビリビリ破り、下着を横にズラしいやらしく湿り黒光る淫部を丸出しにする。
その上には、(永野さんのヘソのあたり)には、んばぁ〜といやらしい蛇のような舌を垂らした若宮さん…
…こういうのが見たかったなぁ。
うん、あとは何か、永野さん、若宮さんの二人のギャップを最大限想像させるものが画面の中に認められればなおよかった。このホテルの密室にチェックインする前、この二人はこんなに真面目な顔して外を歩いていたんだ、とか、こんな他愛もない話をしていたんだとかいうふうに。画面の中で繰り広げられる痴態とは真逆のものが同じ画面の中に(邪魔にならない存在感で)小さな四角画面で表現されていたら興奮度は上がっていたのではないか…? と、ふと考えてしまった。 本編の前に挿入されているとかでなく、同時に映っていなければギャップオナニーはできない。
chapter2をチラ見。
ヒールにレオタードというこれまた、どストライクな内容。ちゃんとベッドの上でも"ヒールを脱がない"わかってらっしゃる内容のようだ。
永野さん、髪型は同じようだが、願わくば、永野さんが始めは夜会巻きに髪を縛り上げていて、男に騎乗位で跨った瞬間「バサッ…!」と髪を解き首を振り別の女の印象が出現する…という表現を見たかったのにな…と、はやくも要望が頭をよぎった。
続きはまた書こう。
未完…
烏滸がましくも、夢野監督へのリクエスト…
https://twitter.com/regretroom/status/1471340306167898112?s=21
出された料理を味わうことへの貪欲(隠喩)
私は、出された料理を味わうことに貪欲です。
作ってくれた人に対しての感謝は言うまでもありません。
では、食事中、どんなことに注意するかというと・・・
・味の繊細なものから箸をつける。濃い味のものを先に食べない。
・TV・スマホを見ない・つけない。
・料理の過程(料理手順や、包丁がまな板を叩く音、煮る・焼く・炒める音)を想像しながら食べる。
・盛り付けや口に運ぶ対象をよく見ながら食べる。
・間食をせず、体が欲している状態で食べるようにする。
・メニューの写真を見ることが可能な状況なら対象となる料理の写真を見ながら食べる。
・あの映画であんなに美味しそうに食べていたな・・・
・・・というように。
和・洋・中、全て。スナック菓子、和菓子、洋菓子に至るまで全て。
こんな味でなければならない、という我儘でなく、
味わうシーンで味わえていない状況がとても嫌なのだと思います。
感じるということを、充分に受け取りたい、と思ってしまいます。
見て、聞いて、嗅いで、咀嚼して、味わって、感覚総動員で集中させます。
こう書いたからといって、食通というわけではありませんし、誰よりも繊細な舌を持っているとか、ソムリエのように食の記憶を呼び覚まし、味を的確に表現してみたり・・・というわけではないのです。(その語彙力が欲しいところです)
目的は味わうということなのですから。
余談ですが、
例えば、大衆的な食堂などで、和食を食している時に、TVのグルメ番組でカレーライスが大写しになろうものなら、和食のイメージが広げ食事に臨んでいた私の脳内は、おかしなことになってしまうでしょう。
ただただ感じ入ることを逃したくない貪欲な姿勢があるということを、食事という形で表現してみました。
女性に抱く妄想
お酒が好き、映画や音楽が好き、そして、いやらしいことに頭の中を覆われている自分。
底無しの性欲。肉欲ではない、脳の欲。
S・M・ドミナント・サブミッシブ・・・
ネットに溢れるいろいろな言葉に自分を当てはめようとするけれど、いまいちしっくり来ません。他人の方が決定づけられるかもしれません。
自分がいつも妄想していることは身もふたもないことばかり。
これらは男の本質だと思うのですが、どうでしょう・・・
「ストッキングと肌の間に顔を入れ、存分にその女性の香りを嗅ぎたい、香りに包まれたい。
後ろからスカートをたくし上げ、下着を勢いまかせにずり下げ、ヒップの割れ目に思いきり顔を突っ込み、その香りを鼻腔から堪能したい」
こんな身もふたもない妄想をいつもいつも考えています。
妄想の一部を吐露しましょう・・・
「女性の声」
デパートのアナウンスのような、女性の声。丁寧に重ねられた女性言葉の組み合わせが大好きです。こんな話し方をする女性がこんな言葉を口にしたら・・・
言葉を発する赤ルージュのヌメヌメとした唇は、別の生き物のよう。
第二の性器のような唇から、透明な唾液が垂れてくる・・・
「髪を解く仕種」
長い髪を団子にしたり、夜会巻き(調べたらそう呼ぶそうです)のようにしている女性が
…騎上位でバサバサッ・・・としなやかに首を振ると 突然目の前に別の”長髪の女性”が現れたように感じます。目から入る「ギャップ」という名の刺激に堪らない興奮を覚えるのです。
さっきまでの女性が、別のイメージの女性に変貌し、自分に跨り腰を振っている・・・
結っていた髪を解く女性に反応してしまうのは、「ネクタイを片手で緩める男性が好き」「ベルトのバックルを外すときのカチャカチャッという音にエロスを感じる」と発言する女性と、同じような感覚なのではないかな?と考えています。
「音楽好き・または演奏する女性」
音楽が好きで、演奏する女性が好きです。偏見かもしれませんが、演奏に集中する女性には、色気を感じると同時に、言葉にならない叫びを感じます。
捌け口にしてほしいのです。
それは自分にとって‘悦び‘だからです。開放している真っ最中の女性の姿に、たまらない色気、妖気、興奮を感じてしまうのです。
「アダルトビデオ」
無意識に見てしまうのは、女性上位ジャンルの、誘う・誘惑、といった言葉が合う状況・・・
女性がセックスに能動的になった時、男を翻弄したいときに、主導権を握った時にどんな表現をするのだろうか?
ここにとても興味があるからだと思います。
女性が辱められる状況も、裏腹な気持ちよさを感じられるような状況が好きです。
「香水」
女性が纏う香水が好きです。香水を纏おうと考える時点でよいのです。
果てる瞬間は、その女性の香りの中で果てたい。それが可能になる香水というアイテムが大好きです。相手がいなくても自慰の時に、その香りを嗅ぎながら自慰することがありました。
果てる瞬間、鼻腔より深く吸い込んで、何もないより数倍恍惚とした瞬間を経験することになりました。
「知能」
知的な女性が好きです。
人間として敵わない、抗えないという状況が、自分の感度を十二分に上げてくれるからです。情けない男ということが興奮の材料になってしまうからだと思います。知的な生命体である尊敬・憧れ・羨望の対象である女性。
・・・そんな女性の息の匂いを感じ、ストッキングに包まれ、唾液を体内へ注ぎ込み、その声を耳元で感じたい。自分は性欲解消の道具で構わない・・・
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ここまで読んでくださった方は、私はMなのではないか・・・と感じたでしょう。
もし、Mだったとしても、女性なら誰にでも反応するわけではないのです。
自分が尊敬する女性。崇める女性。それ以外の女性に、前述したようなことをされたら嫌悪感を持ち、力を持って拒否するでしょう。誰がひれ伏すものか・・・と。
「〇〇じゃなきゃ嫌だ」はエゴではないと思います。
エゴマゾという造語がありますが、あまり魅力のないサドの方の造語なのでは・・・と思っています。
そして、私には、辱められる女性に興奮を覚えるときも確実にあります。
音楽、絵画、読書…私はM女性の感性は素晴らしいと思います。
そんなM女性の秘めた願望を、鬱積した思いを、何かしら自分に関わることで解放できたら…
男に生まれてよかったと、本心から思うかもしれません。
なぜ、その女性がその願望を抱えるに至ったのか、どう満たしたいのか、とても興味があります。
また、M女性の表現するSならとても興味があります。Sの女性が表現するSには興味がありません。ひれ伏すつもりも毛頭ありません。
世の中に自分が心より崇めたい女性がいて、その女性の前でMを表現する自分を満たされていると感じられるだろうか?
…そんな自分がどうして浮かびません。
それとも、それだけの女性に出会っていないだけでしょうか…?
官能的な表現で男を翻弄させてくれる女性が好きで、Sであってほしいとは思わないのです。
ドミナント、サブミッシブに関する拘りはなく、人がドミナントで見せる表情、サブミッシブで見せる表情、快楽に溺れている時に見せる表情が好きなのです。
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肉体的に気持ちよくなりたい、射精がしたい、と考えているわけではないということです。
挿入にこだわりはなく。
妄想だけが止まらず、
毎日、女性の表現にエロスを感じています。
不特定多数の女性と体を重ねるなんて、粘膜を擦り合わせることが快感な動物になるなんて・・・
女性が男性に対し気持ち悪いと思うのと同じことを思っています。
複数でするなど、もってのほかです。
自分は少し、潔癖症なのでしょうか。
視覚・聴覚・嗅覚で興奮し、股間の生き物を勃起させ、悶々としているだけなのです。
どれだけ、脳を勃起させてくれるか。
相手の快楽が自分の快楽になる相手。
そんな女性に未だ、巡り合えません。