電車の車窓から見える、多くの巨大なマンション。その一つ一つの窓に生活が、人生が。一生出会わないかもしれない人たちの人生。
駅を降りれば、知らない人たちが押し寄せては消えてゆく。
その一人一人に人生が。人間関係が。
自分が、知らない人生、把握できない人生、もう、ここで会ったら一生出会わない人たち。
都会へ行くと、こんなことをいつも考えてしまう。
見方を変えると、普段、自分の周りにいる人たち、毎日のように言葉を交わす人たちの尊さ、貴重さ、希少さを感じることもできそうなものだ。
・・・しかし、自分は、じゃんじゃん孤独感を募らせてゆく。
この心の動きは何なのだろう。
普段、関わっている人たちとも、実は関われていないのだろうか。
そうなのかもしれない。本音を言い合うわけでもなく、心を許しているわけでもない。
秘密は秘密。言っても理解される気もしない。理解してくださいとも思わない。
寂しさは自分のせいなのか。
自分という存在が遠く遠く、小さく小さくなってゆく。
こんなことを真剣に考えていても、道行く女性の色香、その時期に流行っている香水の香りに惑わされて、性欲を刺激される限り刺激されて、局部を脈打たせながら、帰途につく。
気持ちが寂しいから、性欲と仲良くなってしまうのか。つながってしまうのか。
寂しくなければ、性欲などやたらと感じずに都会を歩けるのか。
いつもそう。結局、都会をエロなしでは認識できない。
こんなに苦しいなら男だけに歩いていてほしい。目に付くのは男だけにしてほしい…と考え方が飛躍する。
都会=性の街。
思春期から現在まで、そのイメージは変わらない。