女性が知らない男の怠惰。

映画や音楽。その他日常を綴ったブログです。貴方の目に留まるご縁を。メールはこちらへ。jwpianopiano@icloud.com

ジェームズ・ホーナーと人生

YouTubeで、ジェームズ・ホーナーの「アンドリュー NDR114」のテーマ曲をピアノ演奏する外国の方の演奏を聴いた。


Bicentennial Man - The Gift of Mortality (Piano Cover; comp. by James Horner)

鍵盤に触れるその人の思いが伝わってきたのはもちろん、

この演奏を聴いて、改めてホーナーの曲は美しいなぁと感じた。生きる喜びも悲しみも肯定している美しさ。

思わず、ごそごそと、棚にあるサントラを引っ張り出して聴き始めてしまった。

日本では「タイタニック」が1997年に公開された後、2000年の春に公開されていた。

このサントラを聴いていると、ホーナーが、おそらく、仕事も私生活も、人生で充実していた時期に書かれた作品なのではないのかな?と想像してしまう。

 

ホーナー自身が、人生をどう捉えていたのかが伝わってくるような作品なのだ。人生と過ぎてゆく時間を、こんなに美しく胸が締め付けられるようなメロディで表現してくれる。

聴いていると気持ちが、映画の外に向かい、自分の人生の様々なシーンにも繫がる、思い出させてくれる、そんな力がこの「アンドリュー NDR114」のサントラにはある。

曲に魂がこもっているから、自作の流用(よく言われている)とかそんなこと、どうでもよくなってしまう魅力がジェームズ・ホーナーの曲にはある。

 

ロビン・ウィリアムズ主演のこの映画は、この後、ハリーポッターを監督するクリス・コロンバスの作品でもあった。

この映画が表現していたのは、「人生」だと捉えている。

もう少し短くできたのではないか?と思ってしまったことも事実だが、好きな作品なのだ。

ロビン・ウィリアムズジェームズ・ホーナーも、この世を去ってしまった。

それもあって、当時よりもこの作品、曲と向き合う時に、「人生」というものを意識するようになった。

 

最後に、この映画の為に書かれた歌、セリーヌ・ディオンが歌う「ゼン・ユー・ルック・アット・ミー」の歌詞から引用し終わろうと思う(作詞がウィル・ジェニングスでタイタニックの主題歌、「マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン」以来、再び共同作業の3人だ。この2曲は親子のような関係だと思っている)

 

” 笑と涙、生と死

人生とは夢のようなもの

毎日、私は自分の生きる道を

魂を、人生の意味を探し続ける”

 


Bicentennial Man - Then You Look At Me (Celine Dion)

 

桜に思う。

今年も、桜が咲いた。きれいなピンク色で春の訪れを教えてくれた。

でも、私が桜を見て、一番感じているのは ”悲しみ‘ 。

こんなに悲しい花はないんじゃないかと思う。

こんなに、散ることを連想させる花はない、とも思う。

 

月並みな表現だけれど、

あの人とあと何度、この桜を見れるだろうか? と思ったり、

すぐ散ってしまうことの儚さ、を感じたりで、

どうしてもマイナスの感じ方をしてしまう。

 

秋の始めに、枯れゆく葉や、落ち葉、枝を見ている時の方が、気持ちは安定している。

次に再生が待っている、そう期待と未来を感じれる。気持ちが落ち着くのも感じる。なぜか安心している。

 

これとは対象的に、桜を見た時の気持ちが・・・

悲しみしか感じない。

きれいだなと思いはしても、悲しいが勝ってしまう。

 

暗さの中に明るさを見出す方が自分らしい。

これが私の思考回路。

 

桜は、咲いている時は悲しみ。


 

散る時に、未来を感じさせてくれる花。


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「午前十時の映画祭」素晴らしい企画なのに…

「午前十時の映画祭」という企画、4月から9回目を開催するようです。

名作を観たことがある人、ない人、両者にとって、この企画は素晴らしいと思います。

TOHOシネマズ、ユナイテッドシネマ、イオンシネマ、MOVIXなどで上映。

近くのシネコンでも「午前十時の映画祭」をやっていますが、いつも残念に感じていることがあります。。

それは、例えば、10スクリーンあるうちの一番小さなスクリーンで、この企画を開催していることなのです。鑑賞料金も¥1,100だし、リバイバルということでしょうがないのかもしれませんが、観客の立場からすると、観に行く気持ちが萎えてしまうのです。観に行かない理由になってしまうのです。

シネコン側の、しょうがなく開催している姿勢を想像してしまうから…

昨今は、一般家庭でも40インチのTVで映画鑑賞ができるようになりました。大きな画面が昔より身近になっているのです。

だから、昔の作品をもう一度スクリーンで観れるだけではなく、大スクリーンという付加価値が欲しいのです

大スクリーンでもう一度観れる!と感じさせてほしい。

 簡単にレンタルできる作品を、映画館へ観に行く大きな理由がこちらは欲しいのです。

せめて、中くらいのスクリーンで上映してもらえないでしょうか?

タイタニック」「トップガン」「E.T.」がそういう扱いだったら非常に寂しいと心配します。大きなスクリーンのイメージが特に強い作品だから。

七人の侍」も、黒澤明監督の作品だったら画面、構図を大スクリーンで鑑賞したいと思う方は少なくないはずです。

そして、「やはり映画は、映画館で観なければダメだな」と心底思いたい(常に思っていますが)

 

※午前十時と言わず、十四時くらいからの午後のロードショーテレビ東京)のような時間帯も希望します。

 

 

 

ツイッター、その他 SNSで拡がることに思う。

ツイッターや、その他SNSは、同意の拡がるスピードと、情報の速さから、素晴らしい道具だな、と感じています。

 

一方、

自分と似ている嗜好を持つ人たちと簡単に繫がれるけど、全く思いもよらない人と出会って、思いもよらない価値観に触れるということが少なくなっているのでは? とも思うのです。。

「拡がっているようで狭くなっている」 と思う時があるのです。

「拡がりも深まりも、自分と価値観が同じ人と」ってところで止まっている気がして。
現実の方が、全く興味のない人から、気付きを教ることがあるような…

自分も含め、フォロワーの方と、やり取りを頻繁にしている方は特にそうなのではないでしょうか。
共感をもとに、集合体を作れるけど、違う価値観との出会いや互いの理解は少ないのではないでしょうか?

それとも、フォロワー同士の間でも、微妙に当たり前のように、ズレがあって、そこを理解し合えるか否かというところでは、現実とそう変わらないということなのでしょうか。

SNSが普及した時代になって、狭いところで、拡がり、増えていけるけど、実は、何にも新しい価値観・気付きへは拡がっていないのでは?と感じています。

・・・それとも、生き方によっては現実も、似たようなものなのでしょうか?
誰しも、自分の周りには自分と似たような人が集まるし、それが人にとっては気持ちいいということなのだし。

ツイッター、その他SNSに潜む問題を考えようとして書きだしましたが、堂々巡りになってしまいました。

 

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私は女性をこう見ています。

切り換えられる

意に介さない

忘れる

とらわれない

執着しない

あきらめられる

しなやか

笑が多い

喜怒哀楽を表す

結局、前を向く 未来を見ている。

結局、生産的

 

・・・みんな強さです。

かなわない。強い生命体。

 

これらを全て反対の意味にすると、男性の傾向が表れると思うのですがどうでしょう・・・

 

これって、男性側の妄想なのでしょうか・・・

あの女性が表現していた言葉

以前、SNSで、淫靡なメッセージのやり取りをしていた女性がいました。普通の会話がとても丁寧で、日本語をとてもきれいに扱う女性でした。

ところが、性の会話になると一転。

豊かな表現力で自分を欲情の真っ只中へ、誘い込んでくれる女性でした。

 

彼女が使った言葉から、単語だけ挙げてみます。

 

蠢く

下品な私

トロほかま〇〇

陰茎

陰嚢

猛った

官能

快楽の渦

倒錯

アヘ顔

弄ぶ

下品に咥え

発情

忠誠

蕩けた

お〇んぽ

 

・・・これは一部分なのですが、女性は使う言葉の種類が豊富です。

最近使われる言葉でいうなら「語彙力」があると表現すればよいでしょうか。

 

自分には明確な性欲がありますが、これだけの具体的な言葉を並べて、相手に欲望を投げかけられないでしょう。

彼女に実際に会っていたら、こんな言葉を、次から次へ投げかけられて、実際はこれに音や触感、視覚、嗅覚が伴うのです。

自分も負けじと、いやらしく卑猥な言葉で応じるでしょうが、女性の方が何枚も何枚も上手でしょう。言語で勝負しようとすら思えません。

 

外国の研究では、男性が1日に発する単語数は平均7,000語。

女性の場合は平均20,000語――およそ3倍もの単語数を発しているという記事を思い出しました。

 

女性が創り出す官能の世界に、未だ知らない世界に放り込まれ、淫らな言葉に塗れ骨抜きにされ、へなへなにされ立っていられなくなってしまったら・・・

そんな男を見ることで、さらに自らの快楽が増すような女性がいたら・・・

・・・またいつもの妄想が始まります。

 

女性の欲は深く底なしです。

普段、そう感じさせないところが、その欲は、「はかり知れない」と想像することに拍車をかけます。

 

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大半の男の頭の中はこんなです。

普通の人が、こう言う。

「昨日は、電車で買い物に行って、映画を観て、スタバへ寄って帰ってきた」

 

自分にだってできる。当たり前です。

けれど、内側では、脳と気持ちを掻き乱すことが自分に起きているのです。

そう、電車に乗って出発してから、家に帰るまで、目にした女性への妄想・欲求が止まらないのです。襲い掛かりたいとか、そういう衝動ではなく、ただただ性的な妄想が浮かんでは自分を苦しめるのです。

電車に乗り、いや、電車に乗る前から、よい香りのする女性とすれ違ってしまっていたら、妄想の渦の中へズブズブと吸い込まれてしまうのです。電車に乗っても、前に座った女性の唇、瞳、足に光るストッキングを見ては、止まらない想像が広がってゆく。

街へ降りてからも、目に付くのは女性ばかり。

百貨店など入ろうものなら、香水や化粧品の香りにクラクラしてしまい、その間、ずっと、猛って涎を垂らしているモノが目立たないようにと努めるのです。

何度、トイレへ駆け込んだことか。自慰に救いを求めるしかなかったです。

”普通の人の欲求とは違う。もちろん歯止めは効きます。

しかし、その興奮状態をずっと味わっていたい、と考えてしまうのです。もしくは、うまく切り替えられません。

 

 

17歳までは、そんなモヤモヤは感じたことがなかった。

18歳と少し経ってから、明らかに女性の体が、追及したい快楽・自分を充たしてくれる象徴になってしまった。

童貞を喪失するのが遅かったせいか、女性への空想・妄想・虚像を拝む感覚は未だ消えず、特別な聖なる存在なのです。男は、たとえ童貞を失って女性経験を重ねても、10代の頃に形成された、女性から感じる虚像を死ぬまで持ち続けるのではないかと思います。

 

朝、家を出てから帰ってくるまで、男性ばかりの街がいい。もし、それでも女性がいるのだったら、ジャージかなにか、性的な色を打ち消す姿でいてほしいと、未だ真剣に考えています。

 

(余談ですが、AV監督 カンパニー松尾さんの自伝的なインタビュー記事でも、同じようなことを読んだことがあります。童貞期間が長かったことが、作品や監督の作風に影響しているという記事でした)

 

普通に、買い物をして映画を観てスタバへ行って普通の状態で帰ってくる、というのをやってみたい。あー楽しかった、と言ってみたい。

 

ここに書いたことは、

本当に、悩みがあってつらい思いをしている人の前では、堂々と言えないのですが・・・これが原因で、あんまり外に出て、自分を掻き乱したくないと思ってしまうのも、自分の真実なのです。

 

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ノンフィクションに音を付けたらフィクションに。

実際に起きた悲惨な事件・過酷な状況を追体験するようなジャンルの映画・ドラマ・ドキュメンタリーがあります。

ノンフィクションです。

 

”ノンフィクションの創作物” は、もしかしたら、体験したことのない人間のエゴ・探究心を満足させたいだけかもしれない、と思うことがあります。

事件の実際の体験者は、語りたがらないでしょうし、思い出すのも嫌と言います。当事者、それに近い体験をした人は、もう2度と似たような体験はしたくないのだと。

なぜ、忘れたいのに思い出さなければいけないものを見なければいけないの?と彼らは言います。

 

実際に苦しい思いをした人は、もう2度とそこに戻りたくないのです。

それが、体験者の心のリハビリになる・・・という意見は、体験したことのない人間のセリフだと思います。

 

鑑賞している間、涙を流し、怒り、共感しても、終われば日常に戻っていけるという保障があるから、鑑賞できるのだと。

私は、創作物に付く音楽は好きですが、ノンフィクションだったら、音楽を付けてほしくないです。なぜ、音楽でこちらの気持ちを高ぶらせたりしようとするのか、と冷めてしまうのです。

とにかく、伝えるのだったら、エンターテインメントにしてほしくないのです。

※ワイドショーを見ていてもそう思います。

なぜ、事件・事故に音楽を付けるのだと。「ここで音楽入れて」

という舞台裏を、私は軽蔑します。

女性言葉は絶滅してほしくない。

何よりもまず、女性と書いた時の、字体が好きです。女という字は、エレガントに感じます。

作家の、渡辺淳一さん曰く

~「悪」とか「醜」という字は、女の上についてこそ生き生きと存在感を持ってくる~

と、書いていましたが、同感です。

  

男性は女性にはなれないけど、女性は男性になれる。肉体的なことを言っているのではなく、精神状態の話です。

女性は両方できると思います。

だからこそ・・・だからこそ・・・

女性にはうまく男性を騙してほしいのです。

最近は、女性から、女性らしい言葉が聞かれなくなって寂しく思います。

中性的というのでしょうか、男性のセリフに置き換えられる言葉を使う女性が増えました。

女性に女性を求めているのに、表現されるのは男性なのです。

絶滅させず。その女性らしい言葉を巧みに使っているのは、、70を超えられた品のよい女性か、IKKOさんのようにおネエとして認知されている方たち。

一般の女性たちは、ますます中性的になっていきます・・・社会の流れですから、しょうがないのかな・・・と理解するようにしていますが・・・

 

稀に見るのです。言葉を丁寧に使う女性を。

そんな時は、その女性に、女性を感じるし、何よりも色気を感じます。

この人が豹変して、淫らな言葉を話しだしたら、〇〇〇〇なんて言葉を駆使しだしたら・・・言葉だけで果ててしまうだろうな・・・

 

いつも頭はこんな感じの思考回路です。

結局、私の脳は、いやらしくだらしのない妄想に行き着いてしまうのです。

 

 

 

 

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